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9/9のページ 公用分例略記研究会
『触の三』2校 1ページから12ページ・奥付
今回は、『触の三』2次校正の第1回目です。
<ご指摘により修正する事項>
(1)5ページ、5行目…「…父久太郎右衛門…」の「久」を削除。
*解読ミスです。原文には記載されていません。
(2)6ページ、 後ろから4行目… 「…廿五月…」の「月」を「日」に修正。
*解読の誤りです。
(3)7ページ、後ろから2行目 …「…相間…」の「間」を「聞」に修正。
*解読の誤りです。
(4)7ページ、後ろから2行目…「…之始未…」の「未」を「末」に修正。
*解読の誤りです。
(5)9ページ、後ろから2行目…「…食行身録与」の「録」の右側に小さなフォントで「(禄)」を挿入。
*くずしは「録」です。「じきぎょうみろく」を調べましたが、「ろく」は「身禄」の「禄」が正しいようです。「録」は誤記載と判断できます。従って、右側に小さなフォントで「(禄)」を挿入します。
(6)12ページ、後ろから6行目…「…共右之斟酌…」の「右」を「古」に修正。
*解読の誤りです。
<修正が不必要と判断した事項>
(1)4ページ、 7行目… 「…銀拾枚…」の「枚」を「牧」に修正し、右側に「枚」を挿入。
『校正の記録(1)」の26ページにも、同様の内容が記載されています。再掲します。
*該当文字の解読文字は「牧」です。「牧」は「枚」の異体字です。(下図参照)凡例で、「異体字は、常用漢字を中心とした新字体に改める。例外的に次の漢字は異体字のまま使用する。 并(並) 抔(等) 悴(倅) 躰(体) 扣(控) 麁(麤) 尓(爾)」と規定しています。「牧」は例外に入れていませんので、常用漢字の「枚」と記載します。

<質問>
(1)9ページ、後ろから2行目… 「尊信画行藤仏」の「藤仏」とは何か。前後の意味も良く分からない。
*【三五二】の文書は、いわゆる「富士講」禁止のお触です。
・「尊信画行藤仏」
【尊信】 尊んで信頼すること。また、尊んで信仰すること。→敬称
【画行藤仏】画行と藤仏は同一人物です。時に応じて名前を様々と名乗っています。富士講の開祖と言われています。俗名は「長谷川角行」です。
【長谷川角行】(はせがわ かくぎょう)[生]天文10(1541)[没]正保3(1646)
江戸時代前期の神道家,富士講の開祖。書行,画行とも書き,藤仏,東覚とも称する。本名は武邦。生涯は伝説化されており,18歳頃修験道の行者として諸国を遍歴し,特に富士の人穴で断食,爪立ち,不眠の修行を積んだといわれる。富士の神である仙元大日 (浅間様,コノハナサクヤヒメ) を唯一神とする教義を提唱,関東地方の農村に布教し,元和年間 (1615~24) 江戸で治病を行い,江戸幕府に捕えられたこともあった。門人に日旺,大法などがいる。
・「食行身禄」(じきぎょうみろく)(1670―1733)
江戸中期の富士講の指導者。富士講身禄派の祖「元祖」と呼ばれる。通称伊藤伊兵衛、伊勢国一志(いちし)郡川上村に生れ、江戸に出て商人になり、油、呉服、薬、太物(ふともの)等多角経営をして成功する。富士行者月行忡(げつぎょうそうじゅう)の弟子になり1688年(元禄1)の初登山に、仙元大菩薩の神意を受け「振り替り」と「みろくの世の到来」を悟る。1721年(享保6)より『一字不説之巻(いちじふせつのまき)』の著作に着手、資産を使用人や親類に分け与え、油桶一荷の行商人になり、布教に専念した。1732年飢饉(ききん)のなかで富士山入定(にゅうじょう)を決意、翌年7月富士山にて断食(だんじき)入定。
【富士講】(ふじこう)
狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。のちに旺心(赤葉庄佐衛門)らが初の講社を組み、以下の3つを掟とした
良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。
稼げは福貴にして、病なく命長し。
怠ければ貧になり病あり、命短し。
享保期以降、村上光清や食行身禄によって発展した。村上は主に大名や上層階級から支持され、家業を真面目に勤めることが救いとなると説く食行は江戸庶民から熱狂的に支持された。
身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は既存の宗教勢力に属さないもので、食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力であった。
東口本宮冨士浅間神社(静岡県小山町須走)にある富士講の記念碑群。もともとは江戸・麻布の富士塚に富士登山を記念して建てられていたものである。(講の解散時に須走へと移された。)
一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に宝永の大噴火以降復旧に時間がかかった大宮口や須山口は、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわった。最盛期では、吉田口には御師の屋敷が百軒近く軒を連ねていたほどであったのである。数多くの講社があり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであった。
富士講は、江戸幕府からはその宗教政策上好ましくないと見なされしばしば禁じられたが、死者が出るほどの厳しい弾圧は受けなかった。
しかし、明治以後、神道勢力からの弾圧が非常に激しくなった。その結果、やむなく 富士講のその一部は教派神道と化し、食行の流れを汲む不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教などが生まれた。 (ウィキペディアより 抜粋)
*前後の文意は、以下のようになります。
「富士浅間師職共并講中之内重立候もの共をも相糺候処其祖者尊信画行藤仏并右教を伝来いたし候食行身録与申もの神道仏道ニも無之自身之存附を以」→「富士浅間師職ども、ならびに講中の重だち候ものどもをも、あい糺し候ところ、その祖は尊信画行藤仏、ならびに右教えを伝来いたし候食行身禄と申すもの、神道仏道にもこれなく、自身の存じ付けをもって」→「富士浅間にいる御師や、富士講の中心で活動しているおもな人々を、問い糺したところ、富士講の祖は「尊信画行藤仏」と、その教えを伝えている「食行身禄」と言われている者である。富士講の教えの内容は、神道でも仏教でもなく、自分の独自の考えでもって…」
【田無村の富士講】
田無村でも富士講はありました。今は消滅したようです。小さな富士塚らしきものが、芝久保に残っています。地図と写真を下に掲載します。

