6/24のページ 公用分例略記研究会
 『触の二』2校  89ページから98ページ
 今回は、『触の二』2次校正の第8回分です。

 <ご指摘により修正する事項>
(1)91ページ、後ろから3行目…「…厳重取払候様…」の「払」の右側に小さなフォントで「(締)」を挿入。
*くずしの形は「払」ですが、文章上の意味は「取締」です。「払」は誤字ですので、凡例による処理を行います。
(2)96ページ、後ろから1行目…「…高并戸…」の「并」を「井」に修正。
*解読の誤りです。

 

<修正が不必要と判断した事項>
(1)91ページ、5行目…「自儘…」の「儘」を「侭」に修正。
*くずしの形も「儘」です。また「侭」は「儘」の俗字です。「侭」のくずしだとしても「儘」と解読・記載するのが適切です。
(2)94ページ、7行目…「仕候」の「候」を「之」に修正。
*くずしの形から判断するのは困難です。意味上から「武家勤仕之もの(ぶけつとめつかまつるのもの)」では不自然な言い方です。「武家勤仕候もの(ぶけつとめつかまつりそうろうもの)」の方が自然な言い回しです。従って「候」と解読するのが適切です。
(3)96ページ、3行目…「清涼寺」の「涼」を「凉」に修正。
*くずしの形も「涼」です。他の字においても「さんずい」は「にすい」として記載されることがあります。また「凉」は「涼」の俗字です。「凉」のくずしだとしても「涼」と解読・記載するのが適切です。

<質問>
 【三五〇】の 「釈尊」について。 「御下向」なさるのは どなたですか? 
*「仏像」です。嵯峨清涼寺の「木造釈迦如来立像」のことを指しています。下向とは「都から地方へ行くこと」です。京都(当時の都)から江戸へ、仏様がいらっしゃるので「御下向」という言葉を使用しているわけです。該当文書の嵯峨清涼寺の出開帳は、成田山信濃善光寺身延山とともに、出開帳の四天王と呼ばれ、多くの参拝客が訪れたということです。参考までに、ホームページで「出開帳」と「嵯峨清涼寺」の分かりやすい説明がありましたので、下記に掲載します。

【江戸時代の出開帳とその意義について】  ホームページ、https://blog.goo.ne.jp/shouyoukaより
 「出開帳」の「開帳」とは、寺社において普段は参拝できない秘仏を一定期間、帳を開いて一般に開放することをいい、「御開帳」といった言葉で呼ばれることが多い。そしてその開帳をもともとの寺社ではなく(もとの寺社で行うものは「居開帳」【いかいちょう】)、各地、主に大都市に出向いて行うことを「出開帳」【でかいちょう】という(「回国開帳」ともいう)。
 江戸時代には出開帳をふくめ、開帳が盛んであった。出開帳はやはり人口の多い江戸において行われることが多かった。なかでも成田山信濃善光寺・嵯峨清涼寺・身延山は出開帳の四天王と呼ばれ、多くの参拝客が訪れた。とくに出開帳は本所回向院で行われることが多く,近くの両国広小路は盛り場として繁昌した。
 開帳の意義はさまざまあるが、まずはなんと言っても信者に結縁の機会を与えることである。仏教信者にとって秘仏を拝めることは大きな信仰の支えとなる。これはたとえばイスラームの信者が一生に一度はメッカ巡礼を果たしたい心理と同一であろう。
 また、それと同時に寺社側としては、信者からの奉納品や賽銭などの収益があがるということも否定できない要素である。実際に寺社が建造物修復等の費用捻出のために開帳が行われたという記録もある。純粋な宗教行事として行われていたわけでは必ずしもないのである。
 それでは、各地に出張して行う出開帳の意義はなんであろうか。もちろん前述の意義はある。しかし出開帳ならではの意味として、多くの人が参拝できる、という点がある。もちろん信仰心の厚い人であればどこへでもでかけるのだろうが、庶民にとって多くの費用と日数をかけて参拝に行くのは大変なことであった。たとえば出開帳四天王である成田山を例に取ると、江戸から成田山へ参拝に行くには通常二泊三日を要したという。しかも交通機関のまだ整備されていない江戸時代のこと、行き帰りの道程は大変な困難を要したことと推測される。そこで、江戸などの大都市で開催されれば、江戸の庶民にとっては気軽に参拝でき、また寺社としても多くの信者(を含む参拝客)から収益を上げる良い機会となる。
 江戸の庶民にとっては出開帳は信仰のためでもある一方で、行楽の対象でもあったようである。開帳される場所の付近には見世物小屋や飲食店などもひしめき合い、大変な賑わいを見せていた様子が当時の浮世絵等にも描かれている。出開帳の効果を狙った商人も多数居たことであろう。同様に前述の通り江戸で出開帳が多く行われた本所回向院の近くの両国広小路は両国橋の完成後、本所深川の開発が進んで橋の利用者が増え、江戸一番の繁華街となったが、栄えた要因のひとつに回向院の出開帳が挙げられる。
 この出開帳を現代に置き換えると、移動博物館・美術館や移動図書館などが、近い存在であるといえよう。寺社の仏像等の展示も、今は出開帳という宗教的な意味合いよりも、博物館・美術館において企画として行われることが多い。普段は見られないものが気軽に楽しめるという意味で、人気を博しているものも多い。また、完全な展示目的として国内及び世界の美術館等の展示品を大都市の美術館で展示する企画も盛んである(パリ・ルーブル美術館展など)。
 また、行楽的・商業的な意味合いに着目すれば、サーカスや万博なども近い存在ではないだろうか。どちらもその土地に居ては決してみることの出来ないものを身近で楽しめ、イベント的な要素が強く、たくさんの人々が訪れるものである。
江戸時代と違って交通機関が発達した現代にあっても、出開帳と似たようなこれらの行事が広く受け入れられているのは、暮らしの中に「非日常」を求める私たちの心理によるところが大きいのではないだろうか。江戸時代の出開帳の浮世絵を見ると、多くの人が思い思いに秘仏を見物したり、買い物をしたり、飲食をしたりと、生き生きと楽しんでいる様子が伺える。暮らしの中の非日常は、かつてはこのような出開帳や祭りなどであったわけだが、今はそれらが廃れてきたわけだが、時代は変われど日常の「褻【け】」から脱する「晴れ【はれ】」の場を、いつも私たちは求めているような気がする。どんな形であってもそのような場に心が浮かれるというのは根本的な人間の心理なのではないだろうか。出開帳は今では最盛期ほどは行われていないが、その精神は確実に今も私たちの中に引き継がれている

【嵯峨清涼寺について】ウィキペディアより一部抜粋
 清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺院。山号は五台山(ごだいさん)。本尊は釈迦如来(生身の釈迦)。開基は奝然、開山はその弟子の盛算(じょうさん)である。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られる。宗派は初め華厳宗として開山し、その後天台宗真言宗を兼ねた。室町時代より融通念仏宗の道場として発展した。また、幕末まで愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の山下別当寺であった歴史をもつ[4]。

木造釈迦如来立像
 国宝。本像はいわゆる「三国伝来の釈迦像」「生身の釈迦」である。北宋時代の雍熙2年(985年)、仏師張延皎および張延襲の作。像高160.0cmで、伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られている。頭髪を縄目状に表現し、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣に衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示している。

*清涼寺の仏様の写真は、下記のホームページ等で見られます。御自分で探して下さい。
  https://www.cyber-world.jp.net/seiryouji_syakanyorairyuzou/