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7/22のページ 公用分例略記研究会
『触の二』3校 53ページから76ページ
今回は、『触の二』3次校正の第3回分です。
<ご指摘により修正する事項>
(1)67ページ、4行目…「…たるへく旨も…」の「く」の右側に小さなフォントで「き」を挿入。
*16ページ、4行目にも同様の例がありましたが、文法的に誤りです。「旨」は名詞です。上に付く語は「連体形」でなければなりません。「べし」の「活用形」は「べく・べく・べし・べき・べけれ」となり、「連体形」は「べき」です。したがって、この部分は「…たるへき旨…」と記載するのが文法的に正しいです。
<修正が不必要と判断した事項>
*今週はありません。
<質問>
(1)63ページ、後ろから1行目… 「…錦純子縮緬等…」の「純子」は「どんす(緞子)」ですか。
*その通りです。近世には、「どんす」は次の三通りの書き方をしたようです。「緞子・鈍子・純子」
現代では「緞子」という表記をします。現在の人たちに分かりやすいように、右側に小さなフォントで「(緞)」を挿入することを考えましたが、読み方から類推できるだろうということで、そのままにしました。
【緞子・鈍子・純子】(どんす)生糸あるいは練り糸を用いた繻子織。縦繻子の地には横繻子で文様を表した。地が厚く光沢のある絹織物。室町時代に中国から渡来した。(『古文書用語辞典』新人物往来社)
(2)73ページ、2行目…「右大将様」とは 「将軍様」のことですか。
*その通りです。13代将軍「徳川家定」を指しています。ただし、小金井に観桜に来たのは、天保15(1844)年でしたから、その時点では将軍ではありませんでした。その時の将軍は12代徳川家慶でした。家定は当時は「世子(せいし)…世継ぎ。跡継ぎ。」でした。家定の将軍在位期間は、嘉永6(1853)年から安政5(1858)年の約5年間でした。
右大将という官位には、本来は将軍になると同時になりましたが、9代家重、12代家慶、13代家定の場合は、世子時代に「右大将」に任官したそうです。従って、73ページの文書に関係する右大将は、後の13代将軍家定のことを指しているど判断できます。
なお、家定は文政7(1824)年生まれです。小金井の観桜に来た時は、丁度20歳前後です。遊びたい盛りだったのかもしれません。
【右大将】 江戸時代には左大将の地位を摂家が独占した(徳川将軍ですら例外的に4名が任じられたのみであった)。右大将は基本的に清華家のみが任じられたが、江戸幕府においては3代家光以降、員外の武家官位として将軍宣下と(ほぼ)同時に任官した。ただし家重・家慶・家定の場合は将軍世子時代に任官している。(ウィキペディアより抜粋)