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10/31のページ 公用分例略記研究会
『訴の四』2校 25ページから36ページ
2校の第3回校正にご協力いただき、ありがとうございました。
<ご指摘により修正する事項>
(1)28ページ、6行目…「嘉永四年亥年十月」の「四」の下の「年」を削除する。
*原文書には、記載されていません。解読の誤りです。
<修正が不必要と判断した事項>
(1)26ページ、4行目…「…利金纔相成候」の「纔」の下に、小さな「ニ」を挿入。
*当初は「ニ」を挿入していましたが、「ニ」と読める部分を含めて「纔」のくずしであるということで、途中で再修正しました。『校正の記録(1)』の41ページをご参照ください。念の為に、該当の部分を、以下に再掲します。
*再掲…『校正の記録(1)』…「纔」に関する部分
「ニ」に読み取れる部分は、「纔」のくずし字の一部と判断できます。(下図参照)

<ご質問に答えて>
(1)36ページ、後ろから2行目…「合家数」とは、p31からp36までの「新田の軒数」のことか。
*その通りです、記載されている新田の軒数の合計数を意味しています。古文書では、「合家数」は「合わせて家数」と読むようです。
【合】(あわせて)合計して。しめて。(『古文書用語辞典』新人物往来社)
ついでにご紹介しますが、現在「一部分の合計」を意味する言葉は、「小計(しょうけい)」と言いますが、古文書では、「小以(こい)」あるいは「小以高(こいだか)」という用語が使用されています。
【小以】(こい)数量の小計の意。
【小以高】(こいだか)小以締とも。小以に同じ。田畑の高だけでなく、金銭や品物の場合にも使う。 (『古文書用語辞典』新人物往来社)
(2)28ページ、5行目…【82】の「桜碑名同人細工いたし候間為念印置申候」中の「桜碑」とは何のことか。
*「桜碑」とは、現在は「桜樹接種碑」と呼ばれています。「桜樹」は『田無宿風土記(二)』では、「さくらぎ」と、ふりがなが付いています。他の資料では、振り仮名がついていませんので、一応今回は「桜樹接種碑(さくらぎせっしゅひ)」と読むことにします。「接種」の意味は、現在では「細菌・ウイルス・ワクチンなどを人体・動物体または培地に加えること。(『広辞苑 第七版』岩波書店)」です。ただ、「桜樹接種碑」の「接種」は「植え付ける」という意味で使われています。「桜樹接種碑」は、「桜の苗の植え付けを記念した碑」という意味です。『訴の五』では、桜樹の植え付けの文書が多数掲載されています。背景を知っておいた方が、今後の文書理解の参考になると思いますので、長文になりますが、「桜樹接種碑」について、以下記載します。
この碑は、現在も残っています。場所は、玉川上水沿いの「関野橋(せきのばし)」付近にあります。(下図参照)嘉永4(1851)年3月に建立されています。『訴の四』の【82】の文書は、嘉永4(1851)年10月に記載されています。28ページ、4行目から5行目にかけて、「…右石工栄蔵義玉川御上水端ニ建有之候桜碑名同人細工いたし候間為念印置申候」とあります。「右に名前を記載した石工の栄蔵は、(尉殿神社の敷石敷設工事をする前に)玉川御上水のほとりに建立した桜碑の碑文等を細工した。念の為に記載しておく。」という意味です。「桜碑建立」が3月、「神社敷石敷設」10月ということで、時期的にも整合性があります。

碑の表面には、「さくら折へからす(べからず)槐字道人(えんじゅどうじん)」と刻まれています。(下の写真参照)
槐字道人は、下田半兵衛ということですが、どのような意味で名乗ったのかは、私には分かりません。考える材料として、「槐」と「道人」の意味を掲載しておきます。(『広辞苑 第七版』岩波書店)より。
【槐】(えんじゅ)(ヱニスの転)マメ科の落葉高木。中国原産。幹の高さ約10~15メートル。樹皮は淡黒褐色で割れ目がある。夏に黄白色の蝶形花をつけ、のち数珠じゅず状の莢さやを生じる。街路樹とし、材は建築・器具用。花に含まれるルチンは高血圧の薬。また乾燥して止血薬とし、果実は痔薬。黄藤。槐樹かいじゅ。
【道人】(どうじん)①仏門に入って得道した人。どうにん。②道教を修めた人。道士。③神仙の道を得た人。方士。④世俗の事を捨てた人。世捨人(よすてびと)


碑の裏面には、「桜樹接種記」が刻まれています。(下の写真参照)
「桜樹接種記」の原本と下書が下田家に残っています。それによると、次のような内容です。
(『田無市史 第一巻 中世・近世史料編』p657~658)
<桜樹接種記>
承応のむかし、多摩郡に水路をひらき、玉川を引て十里の鴻渠をなし、江戸の大城に入られ、且ほとりの村々に分ち賜り、漑田・飲料の助とせらる、尤莫大の仁沢なり、しかのミならす享保・元文の比桜は水毒を解す効ありとて、両岸数里の間に和州吉野・常州桜川の種をうつして植しめらるとなむ、御代長久に随ひ、桜木繁茂して爛漫の花の比は、上水に影をうつし、芳香流て遠近にわたる、一とせやおほけなき、御駕をさへ□(駐)させ給ひしより、桜花ますますかんはせを増し、其名四方に伝播し、都鄙の雅俗、花のあとに優遊し、日もて夜に継き、昇平の化を謳歌せり、然るにこの桜木、百有余年の久しきを経しかは、朽るもまた多かりし哉、嘉永二年春の比、時の県令大熊ぬしいたく本意なきことにおほして、御代長久と共に花の子孫も長かれと、田無村里正半兵衛に辺り近き村々にはかり、老たるにハ培ひ、朽たるにハ種継なんこと、力を戮せてよく物せよと命せられしに、ミな喜ひて数百本の木を足し植ぬ、おちふにこのぬしは、いにしへの循吏に恥さる行あるにより、常に其沢になつけるものから、忽ちにかくハ事なりたるなれ、この後心あらん者、幾万々年もつきつきにうゑつきて、このぬしのいさほしのさくら木と共に、朽さらんことを冀ふになむ
嘉永辛亥秋八月 田無村 半兵衛 建石
無量老人被嘱書
石工東雪彫 (下田富宅氏所蔵文書)
「無量老人」とは「賀屋(陽)玄雪(節)(かやげんせつ)」のことです。「東雪」は『訴の四』の【82】に記載されている石工の「栄蔵」のことです。文案は、賀陽玄雪が書き、石工栄蔵が刻み、費用は半兵衛が出資して建てたということになると思います。文意については、最後に掲載してある『田無市史』からの引用文の後半部分が碑の説明文に基づいて書かれています、そちらをご参照ください。
【無量】(むりょう)量のはかり知れないほど多いこと。莫大なこと。(『広辞苑 第七版』岩波書店)

なお、余談になりますが、裏面には、「下田半兵衛富宅建石」と刻まれていた痕跡があります。しかし、「下田半」の3文字が、削り取られた、あるいはこすり取られたような跡があります。(下の写真参照)これについて、次のような話が伝わっています。ただし、真偽のほどは不明です。単に誰かのいたずらかも知れません。
「御門訴事件の際、田無村・田無新田は最初は仲間に入っていたが、途中から参加を取り止めた。それを恨んだ他村の百姓が、削り取った。」

【御門訴事件】(ごもんそじけん)御門訴事件は明治2(1869)年に始まる。凶作で苦しむ農民に、当時の役所の品川県が社倉という備蓄米の供出を命令。反発した近隣12カ村の農民が日本橋の役所の門前に歎願に行くが、役人は不当に50人を逮捕、拷問・迫害を加えて、獄死や病死に追いやる。最初は、武蔵野13新田(最終的には田無新田が抜けて12新田)が参加していた。最終的な参加新田は、田無新田が抜けたことで、現在の小金井市:関野新田、梶野新田 西東京市:上保谷新田 東久留米市:柳窪新田 武蔵野市:関前新田 小平市:鈴木新田、大沼田新田、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組 国分寺市:野中新田六左衛門組、戸倉新田、内藤新田の12新田となった。
*経過の詳細は、『田無市史 第三巻 通史編』p643~659をお読みください。なお、『田無市史 第三巻 通史編』はデジタル化されています。西東京市図書館のホームページ上から、読むことができます。「御門訴事件」の関係箇所の探し方は、次のように行います。
*探し方*
(1)「西東京市図書館ホームページ」の下にある、「図書館コンテンツ」の中の「デジタルアーカイブ」をクリックする。
(2)「西東京市デジタルアーカイブ」のページにある「合併前の自治体史…田無市史・保谷市史」をクリックする。
(3)「合併前の自治体史…田無市史・保谷市史」のページの「田無市史目次」をクリックする。
(4)「田無市史」のページの「第3巻 通史編 第五編 近代・現代」の「+」をクリックする。
(5)『第一章 「御一新」と田無』をクリックする。
(6)「第一節 品川県政と社倉問題」の該当箇所をクリックすると、ページが表示される。
桜樹接種の「歴史的経過・背景・当時の世相」については、『田無市史 第三巻 通史編』に具体的に詳細に記載されています。長文ですが、その部分を掲載します。これらのことを知っておくと、桜樹接種関係の文書をより深く理解するための参考となることと思います。
*玉川上水沿いの桜木植え付けに関する文章
『田無市史 第三巻 通史編』P570~574
<花見の文化>
小金井の桜は、 いまもなお桜の名所として、わたしたちの眼を楽しませてくれているが、その歴史は意外に古い。一八五一年(嘉永四)八月、下田半兵衛(富永)が書を「無量老人」こと賀陽玄雪に依頼して、上水縁(現小金井市関野橋そば)に建てた「桜樹接種記の碑」によれば、享保・元文頃、玉川上水の土手沿いに桜の木が植えられたとされる。当時の将軍吉宗は、飛鳥山など現在もなお名だたる桜の名所であるところに桜を植えさせ、江戸の年中行事としての花見が普及するきっかけをつくったと言われている。この玉川上水縁の場合は、桜には上水を解毒する作用があると考えられていたこともあって、大和吉野や常陸桜川の桜の苗木がおよそ四キロメートルにわたって植えられている。
こののち、土手沿いに桜の花が咲き乱れ、花の盛りには近くの人々だけでなく、江戸からも多くの人々が訪れて大変な賑わいをみせている。一八三六年(天保七)に刊行され、多くの読者を得た『江戸名所図会』のなかには、「小金井橋の図」と「小金井橋遠景」の二図が挿し絵として掲載されているが、いずれも春、桜が満開のときの様子である。「小金井橋の図」のなかに記された文によれば、つぎのようなありさまであったことがわかる。
小金井橋は、小金井村のなかを流れる玉川上水堀に架かっているのでこの名がついた。岸をはさんで桜の木が数千株も梢を並べていて、満開の桜の花が散り乱れるありさまはみごとである。満開のとき、橋の上から眺望すれば、はるか遠くまで雪とちり雲かわからないくらいである。そのため、江戸の花見の好きな人々は、江戸からかなりの距離があることを少しも厭わないで、この地の桜を鑑賞しに来ている。橋のたもとには、酒を飲ませたり、茶を出したりする店がいくつかならび、この地を訪れた者が休憩したり泊まったりしている。

「小金井橋春景」『江戸名所図会 四』天保7(1836)年刊
(「古典籍データベース」早稲田大学より)

「小金井橋の図」『江戸名所図会 四』天保7(1836)年刊
(「古典籍データベース」早稲田大学より)
このように『江戸名所図会』で紹介されただけでなく、一七九四年(寛政六)に地理学者古川古松軒によって記された『四神地名録』のなかでは、「数百本の桜が満開のとき、江戸からそう遠くないので、貴賎の関係なく多くの人々が群れをなすように集まり、繁盛している」とある。また、一八二四年(文政七)に幕府に献上された『武蔵名勝図会』では、江戸から多くの人々が花見に来ることに触れたあと、『小金井道しるべ』などという小ガイドブックさえもが販売されていると記している。
しかし、江戸からシーズンにだけやってくる者たちには、この桜の木を長年にわたって守り育てることが、地元の人たちにとっていかに大変なことだったかということはわからなかったであろう。玉川上水は、一六五四年(承応三)、多摩川の水を引き入れて江戸の飲料水とするため、武蔵国羽村(羽村市)から四谷(新宿区)までにわたって開削された。その後、途中で引き水することがされたため、武蔵野台地南半部の新田開発にも利用された。この上水の両側は、もともとは武蔵野原地だったが、周辺の開発が進むなか、一七三六年(元文元)に武蔵野新田の検地があったとき、上水の両側五間(約九メートル)以外は畑として認定された。この両側五間のうち二問が道、残り三間が上水に堆積する土砂を浚渫して置いておく場所とされた。道は無年貢地とされたが、この三間の部分はそこに生えてくる芝などを肥料として利用することが可能となったため、「玉川上水縁芝野」として周辺の村に専用権が分与されることになった。田無村は、玉川上水から田無用水を引き水して恩恵を被っていたこともあって、上水の堀端の北側の部分をおよそ二三〇〇間(およそ四キロメートル)、面積にして二町二反九畝八歩(およそ二・三へクタール)を飛び地として支配し、芝野永という利用税を代官所に納めていた。南側は、梶野新田(二反八畝九歩)・下小金井村(一町五反一畝一三歩)・鈴木新田(九反八畝一歩)・境新田(一町一反二五歩)が専用し、それぞれ芝野永を納めていた(『史料編』Ⅰ89)。田無村が飛び地として管理する北側は、新田開発が進むなかで、小川新田・廻り田新田・鈴木新田・是政新田・関野新田・境新田・上保谷新田の七カ村の地先となっていったにもかかわらず、田無村が管理し続けた。具体的には、上水の流れに支障を起こさせないように、雑木・葭(あし)・茅(かや)を刈り取ることが命じられているが、嘉永頃には水際に生えている茅を上水から九尺分(約二・七メートル)刈り取ることが命ぜられたりしており、その都度多くの人足を村の責任で出している。そのうえ、いったん植えられた桜の管理もこの芝野の専有権を認められた村々の責任とされた。享保期に幕府が植えたとされる桜は、嘉永頃にはすでに老木となって枯れたり、痛んだりして、まばらになっていた。一八五〇年(嘉永三)正月、当時この地域を管轄下にしていた幕府代官大熊善太郎は、桜の木を維持するようにという廻状を出した。昔から人々が丹精をこめて現在の姿にまでしてきた桜の木を永久に受け継ぎたいので、上水縁の村々で、芽生えを根分けするか、苗木を植えるかするようにというものだった。さらに、とくに費用がかかったならば、代官所の方で手当てをするので、遠慮なく申し出よと言っている。この廻状を受け、翌月、田無村の持ち場に全部で一三一本の苗木が植えられている。このときの事業を記念し、大熊代官の見識を讃えて建てられた碑が、前述した「桜樹接種記の碑」である。
このとき、桜の木の邪魔にならないようにと、栗・楢などの木を伐採したが、二年後にはその切り株から「彦生え(孫生え)」が生じるなど雑木が生えてきている。そのため、上水通りを管轄下とする代官勝田次郎から、下田半兵衛が中心となって、上水縁の芝地を管理する梶野新田・小金井新田・境新田・鈴木新田などと相談し、雑木の伐採をするようにと命じられている。さらに、一八五五年(安政二)には、代官小林藤之助によって、嘉永三年に植えた桜の若木と古木の数を調べるようにという命令が出された。上水南縁の桜については、新たに植える苗木三一一本分の代金と肥料代とが、梶野新田ほか三カ村には代官所から渡されている。田無村の持ち場である上水北縁の分については、この代金
をもらわなかったようで、下田半兵衛が負担した可能性が高い(『公』一二三)。なお、この植え付けの結果、翌年には、北縁(田無村持ち場)で四七〇本、南縁(梶野新田ほか三ヵ村の持ち場)で六四七本、あわせて千百本余もの桜があったことになる。桜の名所の面目躍如というところであろうか。