6/13のページ  寺子屋 YY塾

『麻疹戯言』 校正1回目 

「7ページ 左」から「8ページ 11行目まで」

*ホームページでは、縦書き文章は作成できません。横書きで表現できない記号があります。くりかえし記号の一つは、「〳〵」のようになります。ご理解ください。

<解読文>
 私は、漢字は原文書に近い形で翻刻しました。また、読みやすいように、「片仮名は平仮名に変換する」「句読点を明確にする」「歌の部分は「」で囲む」ことにしました。皆さんなりの基準で翻刻してください。
(1)7ページ、2行目…「春はをし、…」の「春」の前に、「「」を挿入します。
*歌の部分を明確にするためです。
(2)7ページ、2行目…ふりがな「ほととぎす」を「ほとゝぎす」に修正します。
(3)7ページ、2行目…「…はたかき…」の「か」を削除します。
(4)7ページ、3行目…「…かなと、…」の「な」の後ろに、「」」を挿入します。
*歌の部分を明確にするためです。
(5)7ページ、6行目…「人々…」を「人〳〵(くりかえし記号です)」に修正します。
(6)7ページ、6行目…「寝」を「寐」に修正します。
(7)7ページ、6行目…「寐」の前に「「」を挿入します。
*歌の部分を明確にするためです。
(8)8ページ、2行目…「…かなと、…」の「な」の後ろに、「」」を挿入します。
*歌の部分を明確にするためです。
(9)8ページ、5行目…「…打伏ける、」の読点を、句点「。」に修正します。
(10)8ページ、5行目…「貴き…」のふりがな「とうと」を「たうと」に修正します。
(11)8ページ、5行目…「賤」に、ふりがな「いやし」を付け加えます。
(12)8ページ、9行目…「声」を「聲」に修正します。
(13)8ページ、11行目…「…苦みける、」の読点を、句点「。」に修正します。

*指摘箇所を画像にしました。小さい文字は読みにくいかも知れませんが、お許しください。

f:id:yodosan80:20200612202150j:plain

 <文意について>

 私は最終的に、今回の範囲の文意を以下のようにしました。意訳はあまりしないようにしましたので、しつこいかも知れません。皆さん自身で文意を考えてください。なお、翻刻や文意の解読で、私自身が誤った点を、後の方に記載しました。長文ですが、最終的な文意を検討する参考になると思います。是非お読みいただければ幸いです。

<該当箇所の文意>

「春が過ぎ去るのは惜しい。また一方では、初夏のほととぎすの声も聞きたいものだ。いろいろと思い悩んでいる今日この頃である」と詠んだ歌がある。
 今年は初夏の頃から風邪が流行している。男女の区別なく、年齢が三十歳ほどの、あちらこちらの人々が風邪にかかり、「寝るのは残念だ。医者が出してくれる薬がきいてほしいものだ。はしかにかかっている今日この頃である」と、うめきながら歌を詠んでいる。
 飲み食いをするものの、味さえ分からない。さらにどれだけ日にちが経ったのかも分からないまま、何となくぼんやりしている。ただ十二日間が経つことのみ願って、指を折って数えながら寝ている。その様子は、貴き人も賤しき人の区別もない。
 身分が高い人が寝ている場所からは、御簾(みす)の隙間から、薬の升麻の匂いが、伽羅の香りよりも強く洩れてくる。
 身分が低い馬追いの男まで、咳をしながら、しわがれた声を出している。「竹に雀は形良く止まるが、止めようと思っても止まらない咳」に苦しんでいる。

 

*会員の皆さんからも素晴らしい文意が寄せられました。私よりも参考になると思います。


<Aさんが考えられた文意>

春が過ぎ去ってしまうのは惜しいなあ。でも初夏のホトトギスの鳴き声も聞きたいものだなあとあれこれ思い悩む今日この頃だ。
今年の夏の初めの頃から、男も女も年齢が三十才くらいのあちこちの人々が、寝ているのはもったいない。医者の薬が効いて欲しいものだ。はしかにかかって悩ましい今日この頃だと言っている。うめきながら、飲み食いをするものの全く味さえしない。ただぼんやりと一人で回復するまでの十二日間を指折り数えて寝て,ばかりだ。その様子は貴き人も賤しき人も区別はない。身分の高い人は、すだれの隙間から升麻の匂いが伽羅の香りよりも強く匂っている。身分の低い人は馬追いの男まで、しわがれた声を作っている。それが似合うと思うかも知れないが、とまるにとまらない咳で苦しんでいる。

 

<Bさんが考えられた文意>

『文意』本文1行目から9行目まで
「春は心地のよいもの。ホトトギスの声をやはり聞きたいが、私は昨今思い悩んでいる」と詠んだ歌がある。
 最近は風邪が流行していて、今年の夏の初め頃から、男女共に三十歳程の年齢の人々があちらこちらで風邪を引いている。寝ているのは惜しい。医者の薬が効いて欲しいものと思いつつ、はしかに患う昨日今日を苦心して歌を詠みながら過ごしている。飲み物、食べ物の味さえ分らない日々。回復までさらにどれだけの日にちが経つのだろうと、何もせずぼんやりしている。……


翻刻等にあたって考えたこと

Ⅰ 「春はをし…」の歌について

 「春はをし…」で始まる歌は、本歌があったことが分かりました。「春はをし 郭公 はたきかまほし 思ひわづらふ しづ心かな」という歌です。「拾遺集(しゅういしゅう)」(「拾遺和歌集」の略称)の巻16にあります。清原元輔が詠んだものです。

 *【拾遺和歌集】(古今・後撰の2集に漏れた和歌を拾った集の意)勅撰和歌集。三代集の第3。20巻。1005~07年(寛弘2~4)ごろ成立。花山法皇親撰。藤原公任の「拾遺抄」の歌をすべて収め、さらに増補。歌数1351首。多くは万葉・古今・後撰時代のもので、洗練された歌が多い。拾遺集
(『広辞苑 7版』より)

 

 「春はをし 郭公はたきかまほし 思ひわづらふ しづ心かな」
 文意は、「春が過ぎ去るのは惜しい。また一方では、初夏のホトトギスの声も聞きたい。落ち着いた心がいろいろと思い悩まされている」というようなことだと思います。春が惜しいけれども、初夏を告げるホトトギスの鳴き声も聞きたいという相反する思いで、落ち着いた心ではいられないという意味だと考えます。

 

 『麻疹戯言』の歌に戻ります。「春はをし 郭公はたきかまほし 思ひわづらふきのふけふかな」
 本歌の「…しづ心かな」を「…きのふけふかな」と替えたことが分かります。替え歌の解釈で、私は大きな誤りをしました。
 一つ目の誤りは、「春はをし…」の「をし」を「愛し(かわいい。いとしい。)」と解釈したことです。本来は「惜し(なくなるのはいやである。手放したくない。おしい。)」の意味です。「愛し」にも「いとしい」の意味はありますので、まったく違うとは言えないと思いますが、どちらかと言えば「惜し」の「おしい」の意味が強いのではないでしょうか。
 二つ目の誤りは、「…郭公はたきかまほし…」を「…郭公は たかき かまほし…」と「か」を入れて解読した点です。この結果「…ホトトギスは声高く鳴いている…」と解釈してしまったのです。
 三つ目の誤りは、二点目と関係しますが、「…郭公はたきかまほし…」の文節の切り方を間違えたことです。
 文字数での切り方は「…郭公 はたきかまほし…」になります。「は」は「郭公」に付くのではなかったのです。「郭公(ほととぎす)」で5音、「はたきかまほし」で7音で、短歌形式になります。意味的には「はた きかまほし」と分けて考えます。
 *はた 【将】副詞①…もまた。やはり。さらにまた。▽二つの事柄の並立を表す。
  きかまほし【聞かまほし】聞きたい。聞いてみたい。動詞「きく」の未然形+願望の助動詞「まほし」

「春はをし 郭公はたきかまほし 思ひわづらふきのふけふかな」
 替え歌の文意は、「春が過ぎ去るのは惜しい。また一方では、初夏のほととぎすの声も聞きたいものだ。いろいろと思い悩んでいる今日この頃である」です。

 

 『麻疹戯言』とあるように、著者式亭三馬は、滑稽さを出すための導入として、当初の歌を使用したのだ思います。本歌の「…思ひわづらふ しづ心かな」では、余りにも風流すぎ、俗っぽくするために、「…思ひわづらふ きのふけふかな」と替えたと推測します。二番目の歌の最後を「…きのふけふかな」とすることを考えていて、その対比で当初の歌の言葉を替えたとも言えます。式亭三馬の構成の緻密さが分かります。
 歌を滑稽さの材料として取り入れたことから、式亭三馬の見識が分かります。とともに、理解出来る読者層の見識も相当なものだと思います。


Ⅱ 「竹に雀はしなよく…」について

「竹に雀はしなよくとまる とめてとまらぬ咳嗽(せき)をなん」で始まる歌にも、本歌がありました。俗謡(民間のはやりうた。小唄・流行歌の類。俗曲。民謡)で歌われていました。今でも歌われています。ネットで探すと、小唄の動画があります。興味があるかたは、ご覧ください。

 「竹に雀は 品よくとまる とめてとまらぬ 色(恋)の道」が本歌です。会員の方の故郷でも、「竹に雀は品よく止まる」は、盆踊り歌として歌われていたそうです。また「踊り上手は目にとまる」とも歌われていたそうです。「竹に雀は…」の本歌の文意は、改めて書くこともないでしょう。

(閑話…書いていて、最近話題になっているタレントの顔が浮かびました。)

 

 さて、『麻疹戯言』の歌に戻ります。「竹に雀は しなよくとまる とめてとまらぬ せきをなん」ですが、7・7・7・5音になっています。調子の良い配列になっています。本歌の「色(恋)の道」を「せきをなん」と替えただけです。

「竹に雀は しなよくとまる とめてとまらぬ せきをなん」
 替え歌の文意は、「竹に雀は形良く止まるが、止めようと思っても止まらない咳だ」です。

 

 この解釈とは違い、歌の文意を意訳する考え方があります。「竹に雀」は慣用句で、「取り合わせのよいことのたとえ」です。「竹」に「馬追い」、「雀」に「しわがれた声」をたとえた解釈もあります。

 

 ロバート・キャンベルさんの訳では、「下々では、馬の世話をする下男まで咳でハスキーな声を作って、それは職業がら似合うかもしれないけれども、馬はとめても止まらない咳でだいぶ苦しんでいるご様子」となっています。「馬の世話をする下男」と「ハスキーな声」を「取り合わせのよいことのたとえ」として、「職業がら似合う」と訳しています。
 私が理解出来るのはここまでです。「竹に雀」の慣用句の意味を、「竹に雀は形良く…」の歌に適用して良いものか。適用したとしても、なぜ「…職業がら似合うかもしれないけれども、馬はとめても止まらない咳でだいぶ苦しんでいる」という訳になるのか、私には理解できなません。このような意訳になることを示す資料があるのかも知れません。私の力量不足のために、探すことができません。会員の皆さんの中で、キャンベラさんの訳の裏付けとなる根拠が分かる方がいらっしゃったら、是非ご教示ください。

 私は、歌の文意を素直に解釈しても良いのではないかという考えです。「雀は上手に竹に止まることができるが、止めようと思ってもとまらないほどの咳で苦しんでいる」という解釈の方が、庶民の気持ちにユーモアを感じさせながら、受け止めてもらえるような気がします。

 

 

 この歌の面白さが分かるには、本歌のことを知っている必要があります。『麻疹戯言』は享和3(1803)年発行です。当時既に「竹に雀は…」の歌は広く人々の間に歌われていたことが分かります。そのことを踏まえて、式亭三馬が書き入れたものです。「春はをし…」の歌と同じで、「戯言(ぎげん・ざれごと)」であっても、読者も一定の見識がないと、内容理解が困難です。
 私が翻刻や文意理解において誤りを犯したのは、当時の一般の人々が持っていた見識がなかったからです。ただ、これはやむを得ない面があります。生きている時代により、必要とされる見識の内容が違います。古い時代に書かれた文書を理解するためには、調査や学習を十分にしなければならないことを、今回は改めて学びました。